
幕末の幕臣・小栗忠順には、国子という一人娘がいました。
しかし国子は、父の顔を一度も見たことがありません。
国子が生まれたのは、忠順が新政府軍によって処刑されたあとのことでした。
身重だった母・道子は、忠順の母や小栗家の人々とともに会津へ逃れ、戊辰戦争のさなかに国子を出産します。
父を失い、家も財産も失った状態で生まれた国子。その成長を支えたのは、三井の大番頭・三野村利左衛門や、大隈重信・綾子夫妻といった人々でした。
やがて国子は婿を迎え、一度は断絶の危機に瀕した小栗家を再興します。
国子の人生を追うと、忠順が生前に結んだ人との縁が、その死後も遺された娘を守り続けたことが見えてきます。
父・小栗忠順の死後に生まれた国子
慶応4年(1868年)、旧幕府の勘定奉行だった小栗忠順は、領地のあった上野国権田村で新政府軍に捕らえられました。
十分な取り調べも行われないまま、忠順は閏4月6日に処刑されます。
このとき、妻の道子は忠順の子を身ごもっていました。結婚からおよそ20年を経て、ようやく迎えることのできた、夫婦待望の我が子でした。
忠順は身の危険を予期していたのか、道子たちに会津へ逃れるよう伝えていたといわれています。
道子は忠順の母・くに(邦子)、養女の鉞子らとともに権田村を離れ、村人や家臣たちに守られながら会津を目指しました。
身重の女性を連れた一行の逃避行は、決して容易なものではありませんでした。
一行は善光寺参りなどを装い、追手を避けながら山道を進み、新潟を経て会津へ入ったと伝わっています。
そして忠順の処刑から約2か月後、道子は会津で女児を出産しました。
この娘が、国子です。
国子は父の死後に生まれた、忠順唯一の実子でした。
祖母も同じ「くに」という女性だった
国子の名前について、興味深い事実があります。
忠順の母、つまり国子の祖母もまた、「くに」という名の女性だったのです。
祖母の名は、史料によって「クニ」「くに子」「邦子」などと表記されています。一方、孫娘は「国子」と表記されるため、漢字までまったく同じではありません。
それでも、祖母と孫が同じ「くに」という読みの名を持っていたことになります。
祖母・邦子は、小栗家十代当主・小栗忠清の娘でした。忠清が若くして亡くなったため、中川家から忠高を婿養子に迎え、小栗家を存続させています。
つまり邦子は、小栗家に婿を迎え、家名を次代へつないだ「家付き娘」でした。
国子の名が、祖母の邦子にちなんで付けられたことを示す史料は、現在のところ確認できません。
そのため、名付けの理由を断定することはできません。
しかし、道子はなぜ、生まれた娘に祖母と同じ「くに」という音を持つ名を与えたのでしょうか。
小栗家の娘として婿を迎え、家を守った祖母のように強く生きてほしいという願いが込められていたのでしょうか。
あるいは、亡き夫・忠順を生んだ母と同じ名を娘に与えることで、道子は夫を偲んだのかもしれません。
奇しくも国子は後年、祖母と同じように婿を迎え、小栗家を次の世代へつなぐことになります。
戊辰戦争を生き延びて東京へ
会津へ逃れたからといって、道子たちの安全が保証されたわけではありません。
やがて会津にも新政府軍が迫り、激しい戦闘が始まります。道子たちは国子を守りながら戦乱を生き延び、会津藩の降伏後も現地で冬を越しました。
明治2年(1869年)春、一行はようやく会津を離れます。
道子たちはいったん静岡へ向かい、その後東京へ出たとされています。
しかし、旧幕府の有力者だった忠順はすでに亡く、小栗家の屋敷や財産も失われていました。道子は林田藩主建部家の出身でしたが、実家の方は頼らなかったようです。
東京へ出た母子が安定した生活を送るためには、誰かの助けが必要でした。
その道子と国子に手を差し伸べた人物が、当時の有力商人・三井家の大番頭、三野村利左衛門でした。
三野村利左衛門に守られた母子
三野村利左衛門は、幕末から明治初期にかけて三井の経営を支えた大番頭です。
三野村は、もともと小栗家に奉公した経験を持ち、その後、両替商を経て三井に入った人物でした。忠順は三野村の才覚を認め、三井と幕府をつなぐ重要な役割を任せています。
その信頼が、三野村が三井で力を発揮する足掛かりになったと考えられています。
忠順が処刑されたあと、三野村はその恩を忘れませんでした。
三野村は道子や国子のために住居を用意し、生活を支えました。忠順本人に恩を返すことは、もはやできません。そこで三野村は、忠順が遺した妻と娘を守ることで、その恩に報いたのでしょう。
明治10年(1877年)に三野村が亡くなったあとも、三野村家は母子への援助を続けました。
三野村家には、「小栗国助情金」と記された援助の記録も残されています。
国子が父から受け継いだ最大の財産は、屋敷や金銭ではなく、忠順が生前に築いた人との縁だったのかもしれません。
母・道子の死と大隈重信夫妻の庇護
多くの人に支えられながら国子を育てた道子は、明治18年(1885年)に亡くなりました。
父の顔を知らない国子にとって、会津への逃避行を生き抜き、自分を育ててくれた母の死は、非常に大きな出来事だったはずです。
母を失った国子を、今度は大隈重信と妻の綾子が庇護しました。
明治政府の要人として知られる大隈重信と、小栗忠順の娘。一見すると意外な組み合わせに見えますが、両家には親族としての縁がありました。
大隈重信の妻・綾子は、忠順の従妹にあたります。
綾子は幼いころ、家庭の事情から小栗家で数年間育てられたといわれています。忠順の両親から受けた恩を、遺された国子に返したと考えることもできます。
国子を守った人は、三野村利左衛門から三野村家へ、そして大隈重信・綾子夫妻へと引き継がれていきました。
旧幕府の重臣の娘でありながら、新しい明治政府の中心人物にも保護された国子。
その背後には、政敵や身分といった枠組みだけでは語れない、人と人とのつながりがありました。
矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎える
大隈夫妻のもとで暮らすようになった国子には、やがて縁談が持ち上がります。
相手は、矢野貞雄という青年でした。
貞雄は、政治家・ジャーナリスト・小説家として活躍した矢野龍渓の弟です。兄の龍渓は大隈重信と親しく、立憲改進党の結成にも参加した人物でした。
明治19年(1886年)、国子と貞雄は結婚します。
貞雄は婿養子として小栗家に入り、小栗貞雄と名乗りました。これにより、断絶の危機にあった小栗家は再興されます。
貞雄はその後、新聞経営や製薬、石油事業などに携わり、衆議院議員も務めました。国子との間には、跡継ぎとなる又一が生まれています。
かつて祖母の邦子は、忠高を婿に迎えて小栗家をつなぎました。
そして孫の国子もまた、貞雄を婿に迎えて小栗家を再興しました。
同じ「くに」という名を持つ祖母と孫が、ともに婿を迎え、小栗家を次代へつないだことになります。
国子の名付けにどのような願いが込められていたのかは、今となっては分かりません。
それでも、国子が祖母から受け継いだものは、名前だけではなかったのかもしれません。
父・忠順の名誉回復を見届ける
明治時代の後半になると、小栗忠順の功績は少しずつ見直されるようになりました。
忠順が建設を進めた横須賀製鉄所は、のちの横須賀海軍工廠へと発展し、日本の近代海軍と造船業を支える重要な施設となりました。
明治45年(1912年)には、東郷平八郎が小栗家の人々を自宅へ招いたと伝えられています。
日本海海戦の勝利には、忠順が建設した横須賀製鉄所の功績があったとして、その子孫に感謝を伝えるためでした。
このとき東郷のもとを訪ねたのは、国子本人ではなく、夫の貞雄と息子の又一でした。東郷は二人に忠順への感謝を述べ、又一に「仁義礼智信」と記した書を贈ったといわれています。
父の死から四十年以上が過ぎていました。
国子自身が父と会うことは、ついにありませんでした。しかし、自分が生まれる前に処刑された父の仕事が、日本の近代化を支えたものとして評価される時代を、国子は生きて見届けたのです。
人々の恩に守られ、小栗家を未来へつないだ国子
小栗国子は、昭和4年(1929年)に60歳で亡くなりました。
父の処刑後、戦雲迫る会津で生まれた国子の人生は、最初から波乱に満ちていました。
しかし国子の周囲には、常に手を差し伸べる人がいました。
道子と邦子を会津まで守った権田村の人々。忠順への恩を妻子に返した三野村利左衛門と三野村家。幼いころに小栗家から受けた恩を国子へ返した大隈綾子。そして婿となり、小栗家をともに再興した貞雄。
国子は、父の顔を知りません。
それでも、その人生は父・忠順が生前に築いた縁によって守られていました。
そして守られるだけではなく、成長した国子は婿を迎え、小栗家の名と忠順の血を次代へ渡しました。
祖母と同じ「くに」という名を持ち、祖母と同じように婿を迎えて家をつないだ国子。
忠順の遺児として生まれた国子は、多くの人から受け取った恩とともに、小栗家を未来へつなぐ役目を果たしたのです。
『小栗忠順の一人娘・国子 父の死後に生まれ小栗家を再興した遺児』まとめ
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小栗忠順の一人娘・国子は、忠順の処刑後、戊辰戦争中の会津で生まれた
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国子は、三野村利左衛門や大隈重信夫妻など、忠順ゆかりの人々に庇護された
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国子は矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した
小栗忠順の死後に生まれた一人娘・国子は、奇しくも祖母・邦子と同じように婿を迎え、小栗家を再興しました。
国子本人の人柄を詳しく伝える史料は、あまり残されていません。それでも、彼女を庇護した人々は、時に国子の中に亡き忠順の面影を見たのかもしれません。
父が生前に結んだ縁に守られて育った国子は、やがてその家名と血筋を、次の世代へとつないだのです。